「死んだ人は、どこに行くんだと思う?」
お祖母ちゃんは、『死んだ』んでしょう?
煙突から立ち上る煙を見上げながら、ほとんど無意識に呟く。
横に立って、僕と手を繋いでいる早苗の掌が、小さく震えたような気がした。
別れの挨拶を、あなたへ
「お祖母ちゃんはこれから、遠いお空に旅に出るんだよ。ほら、あの煙を見てご覧? あの煙に乗って、お祖母ちゃんはお空に昇って行くんだよ?」
だから、ここでしっかり見守っていてあげようね。
何が起こっているのか、まだよく理解できていない僕に、優しく諭すように母は言った。
それからずっと、僕は立ち昇っていく煙を見上げている。
煙突から立ち昇る煙は、迷うことなく、空へ向かって行く。
「・・・・・・そんなこと、私に理解るわけないでしょ」
そっけなく、どこか怒った様子で早苗は答えた。
なんだか、見上げる瞳は潤んでいるようで、僕は少しだけ動揺した。
今考えれば、祖母の『死』という現実を前にしてそんなことを呟いた僕に対して、早苗は怒っていたのかもしれない。
当時11歳だった早苗は僕と違い、人の『死』を理解できる年齢に達していたのだろう。
「お父さんは、お祖母ちゃんは空に行くんだって言ってた。それじゃあ、お祖母ちゃんはこれからお空に住むの? もう帰ってこないの?」
挨拶できないの?
『挨拶はしっかりしないと駄目』だと言っていたのは、お祖母ちゃんなのに。
「理解らないって、言ってるでしょう!?」
疑問をひたすら投げかける僕に、とうとう早苗は怒鳴った。
いきなり声を荒げられて、びくっと体が動いた。
握っていた早苗の掌を、思わず手放す。
「・・・・・・ごめんなさい」
僕には、早苗が怒っている理由が解らなかった。
だけど、早苗がいつもより元気なて、滅多に見せることもない涙を浮かべているので、何だか自分がとんでもなく酷いことを言ってしまったような気がした。
早苗がそんな調子だと、何だか僕まで悲しくなって、胸の奥が熱くなった。
「・・・・・・・・・・・・」
しゅんとして黙ってしまった僕の旋毛を、早苗の濡れた瞳が見ているのが、気配で感じられた。
「お祖母ちゃんは、空に昇るのが忙しいから。だから、挨拶する時間ないんだと思うよ?」
ぶっきらぼうに、早苗が言う。
「・・・・・・・・・・・・」
それでも僕は、早苗を見なかった。
何となくバツが悪かったし、何だか早苗が酷い顔をしているようで、顔を上げることができなかった。
しばらく、僕も早苗も言葉を発しなかった。
ただ黙って、早苗は僕の旋毛を見ていた。
しかし、ややあって、
「・・・・・・いつか」
小さく、呟いた。
「・・・・・・え?」
思わず、すいと視線を戻し早苗を見やると、早苗は悲しそうな笑顔を浮かべて、「しょうがないな」といった顔をして、僕を見た。
「いつか、私が死んだら教えてあげる」
どうせ、年功序列で私の方が先だろうし。
そう短く言うと、早苗は僕の頭を優しく撫でて、立ち昇る煙へと視線を移した。
僕には、早苗のその笑顔の意味も、立ち昇る煙の行く先も、そして母のことさえも理解できていなかった。
それでも、何だか知らないけれど、早苗が僕のためにそれをして、僕のためにそれを見て来て教えてくれるのだということが、とても嬉しかったので、
「うん。ありがとう、早苗」
笑顔で、そう答えた。
それから、煙が消えてしまうまで、ずっと二人でそれを見ていた。
次第に色を薄くしていった煙は、最後には空に溶けるようにして見えなくなった。
今日、とても懐かしい夢を見たような気がする。
もう十年も前の話だ。
祖母の葬式に参列した僕と早苗は、その体が天に昇りきり、小さな箱へと戻るまでの間、二人で空を見上げていたのだ。
「まだ幼さな二人に見せるのは気の毒だよ」
親戚の誰かが、言った言葉を覚えている。
僕と早苗は、とうとう母の成れの果てを見ることなく、そのまま火葬場を後にした。
帰りの車の中で、早苗は大事そうに、愛しそうに白い布で包まれた箱を抱きしめていた。
僕は、どうして早苗がそんな箱を抱えているのか、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているのかも解らず、目まぐるしく変わる車外の景色に、気を取られていた。
早苗は、僕などよりずっと大人で、僕などよりずっとずっと色んなことを理解していたのだろう。
コンコン、と扉をノックして入室を告げる。
眠っているだろうと思っていた早苗は、体を起して、窓の外を見ていた。
見上げる空はどこまでも青く、まるであの日の空のようだ。
「寝てなくて大丈夫なの?」
「今、目が覚めたところの・・・・・・」
「・・・・・・今日、とても懐かしい夢を見たのよ?」
「へぇ・・・・・・。どんな夢?」
持って来た花を花瓶に挿しながら、僕は問うた。
早苗はそれには答えず、ただ微笑んでいた。
そして、ややあってから、
「・・・・・・いつかした、約束、覚えてる・・・・・・?」
「・・・・・・約束?」
そう言った。
「お祖母ちゃんの、お葬式の日・・・・・・聡史は、まだ幼さかったから、忘れちゃったか」
忘れたも何も、今日その夢を見たばかりだ。
何となく、早苗の様子がおかしいのを感じながら、僕は彼女のベッドサイドに備え付けられた椅子に腰掛ける。
ふと、彼女の掌が目に入った。
あの頃と比べても、随分と痩せてしまった。
「覚えてるよ。よく、覚えてる」
二人で手を繋いで、ずっとずっと、煙が空へ還って行くのを見ていた。
空が夕焼けに染まるまで、見ていたね。
力のない青白い掌を、両手で握りながら言うと、早苗は微笑んだ。
「聡史は、まだ幼さくて・・・・・・。私は、お姉さんなんだからって、いつも母さんに言われてて。
だから私、何も理解ってなくて、無神経なこと言う聡史のこと、腹立たしくてもなんとか宥めようと思って・・・・・・」
目を細め、懐かしむようにして早苗は言葉を紡ぐ。
“早苗はお姉さんなんだから、聡史くんの面倒を見てあげなきゃ駄目でしょう?”
悪戯をして、悪いのは僕なのに、いつも早苗はそう言って伯母さんに怒られていた。
悪いのは僕なのに、いつも。いつも。
「ごめん・・・・・・僕、早苗に迷惑ばっかかけてて」
「・・・・・・良いのよ。それに、ちっとも迷惑だなんて思ってなかったよ?」
聡史と一緒にいると、楽しかった。
思えば、物心ついた時、すでに早苗は側にいた。
一緒に遊んで、一緒に勉強して、一緒に成長した。
でも・・・・・・。
痩せて青白い顔をした早苗を見る。
不意に、泣きそうになり、自然を装いながら視線を外し、懸命にそれを堪えた。
「・・・・・・約束、守ってあげられそうだね」
「・・・・・・え?」
言葉に視線を戻すと、早苗は目を閉じ、胸の上で両手を組んでいた。
呼吸は浅く、まるで呼吸をしていないかのようだ。
知らない人間が、もしも姿を見たならば、『死』んでいるように見えるかもしれない。
そう無意識に思い、はっとして頭を振る。
恐ろしいことを考えてしまった自分が、情けなくて、涙の気配は更に深くなる。
それでも、僕がここで弱さを見せるわけにはいかない。
本当に悲しいのは、早苗自身なのだから。
「死んだら、人はどこに行くのか・・・・・・」
「・・・・・・!!」
僕は、自分が今どんなに酷い顔をしているのかも気にせずに、早苗を見た。
早苗は目を閉じており、僕を見ない。
「私が死んだら、教えてあげるって約束したよね?」
「早苗」
「年功序列で、私の方が早いって、話してたもんね?」
「早苗!!」
馬鹿なことを言うのは止めてくれ。
ここが病室であることも忘れて、僕は思わず怒鳴っていた。
それでも相変わらず、早苗は僕を見ない。
ただ黙って、体を横たえたまま、目を閉じている。
確かに、僕は早苗よりも年下で、年功序列の概念から言えば早死にするのは彼女の方なのかもしれない。
そうだとしても、それはこんなにも早いはずがない。
こんなに早くて、良いはずがない。
だって、早苗はまだ二十年しか生きていないのだ。
やり切れない思いが胸を駆け、僕はもう限界五秒前といった感じだった。
それでも、僕は泣かなかった。
ただ下を向いて、無力な自分を恨んで、手をきつく握っていることしかできなかった。
「でも・・・・・・」
小さく、早苗の声が聞こえる。
羽音のような声だが、静かな彼女の個室にはそれだけで十分な音だった。
「教えてあげるのは、無理、かな・・・・・・」
シーツの擦れる音がして、早苗の動く気配がした。
彼女が、僕の旋毛を見ているのが気配で感じられる。
「空に昇るのが忙しくて、きっと聡史のところまで来る時間、ないと思うから」
ごめんね?
そう短く言うと、早苗は微笑みながら僕の頭を優しく撫でた。
それは、十年前と何も変わらないはずなのに、僕には全く違うものに感じられた。
気が付くと僕は、早苗の細い体を抱きしめて泣いていた。
子供のように声を張り上げて、ただ、関を切ったように泣き続けた。
早苗は黙って、嗚咽を上げる僕の背中を、優しく撫でてくれた。
ああ、幼かった自分の、なんと愚かで羨ましいことだろう。
それを理解していなかった頃の、なんと残酷なことだろう。
あの頃の自分の戻れたならば、こんな悲しみや苦しみから逃れられるのだろう。
死後の行く末のことなど、知りたくもない。
だから、どうか僕の側からいなくならないで。
できることなら、ずっと、時間の許す限り永遠に、僕の側にい続けて。
先に逝くなど言わないで、ずっとずっと側にいて、できれば僕を看取って欲しい。
ああ、神様。
どうか。
未来のことになど、興味はありません。
だから、早苗から今を奪らないで。
どうか。
僕から、早苗を奪らないで下さい。
(2006.6.19 桜葉吉野)
初出:小説投稿HP BlueCampus投稿